穏生道(おんせいどう)
友人があんしん道を立ち上げたというので、私は、何か道たるものは自分の人生にあったのかな、ということで、ChatGPTに自分の経験談とか打ち込んでみて、道たるものを見出してみました。
八章からなる柱を出していもらい、語尾調整などもおこないましたので、ここに紹介したいと思います。ちょびちょび出してもいいかもしれないですが、そんなに長い文章でもないので全文掲載でいきたいと思います。
🌿 穏生道(おんせいどう)
―― 無理せず、怠らず、調和の中で創造する ――
一章 自然に調和する
風が通り抜ける瞬間、木々が揺れ、光が差す。
そのとき、私は「生きている」と感じる。
自然と調和するというのは、
何かを我慢したり、逆らわないということではなく、
ただ「今の自分」に合った呼吸を選ぶことなのだろう。
晴れの日には外を歩き、
雨の日には静かに本を開いてみる。
どちらも、同じ「生きる営み」と言えるかもしれない。
自然に抗おうとするとき、心は固くなるのだろう。
けれど風に身を任せてみると、
いつのまにか思考もほぐれ、
自分の中にも風が通い始めるように思う。
自然は敵でも教師でもなく、
ただ呼応しあう友なのかもしれない。
二章 己を整える
「人と仲良くするには、まず自分と仲良くすること」
そんな言葉をもらった日から、少しずつ何かが変わっている。
外の世界を変えるよりも、
まず自分の中を整えることが近道なのかもしれない。
「ありがとう」「うれしい」「感謝してます」――
そう言葉にしてみるだけでも、
心の向きがほんの少し変わるように感じる。
過去を否定せず、静かに書き出してみると、
思っていたよりも自分はよくやってきたのだと気づくことがある。
弱さの奥に、しなやかな力が隠れているのかもしれない。
自分を責めるより、
まずは「よく頑張ったね」と言ってあげてもいい。
三章 よき行いを積む
心を整える言葉は、波のように世界へ広がっていく。
「ありがとう」と口にするたびに、
その場の空気が少しやわらぐ気がする。
よい言葉は、自然とよい行いにつながっていくのだろう。
感謝や誠実さは、特別な徳ではなく、
日々の中で静かに積まれる「小さな祈り」なのかもしれない。
誰かを思う気持ちは、
めぐりめぐって自分をあたためる。
そんな循環の中で、世界は少しずつ穏やかになっていくのだろう。
よい行いとは、
誰かを照らしながら、自分も照らされていく灯のようなものかもしれない。
四章 回復の術をもつ
かつては「自分は弱い」と思っていたことを覚えている。
けれど、よく思い返してみれば、
何度も回復してしぶとく生きている。
眠ること、音楽を聴くこと、創作に没頭すること。
それらはきっと、心が自然に覚えた「回復の術」なのだろう。
人は壊れないために生きているのではなく、
壊れてもまた立ち上がる力を学びながら生きているのかもしれない。
強さとは、折れないことではなく、
折れたあとに静かに形を整えられることなのだろう。
五章 創造を楽しむ
創ることは、心の呼吸に似ているのかもしれない。
ゲームを作り、本を書き、音楽を紡ぐ。
それらは、言葉にならない思いを世界に手渡す行為のようだ。
創造には、正解も完成もない。
ただ、いま感じていることを形にしてみるだけで、
世界とのつながりが少しだけ見えてくる。
創るたびに、自分の中に風が吹くような感覚がある。
それは、心のなかで何かが再び息をしはじめる瞬間なのだろう。
創造とは、
自分の中の静かな声を、
世界に優しく響かせることかもしれない。
六章 日常を味わう
創作の合間のコーヒー、
夕暮れの散歩、
静かな音楽。
それらは、何気ないようでいて、
心をやわらかくする不思議な力をもっている。
幸せとは、大きな出来事のことではなく、
「気づく力」のことなのかもしれない。
丁寧に味わえば、
どんな日も少し輝いて見える。
日常とは、心が休むための小さな祈り場のようなものだろう。
幸せは遠くではなく、
いま目の前の一呼吸の中にあるのかもしれない。
七章 共に生きる
友人との会話や、自助会の語らいの中で、
ふと、心がほどける瞬間がある。
人と共に笑うこと。
それだけで、世界が少し明るくなる気がする。
人は、他者の中で磨かれ、癒されていくのだろう。
理解しあうことよりも、
「ともに在る」ことのほうが大切なのかもしれない。
共に生きるとは、
おたがいの静けさを尊重しながら、
一緒に季節をめぐっていくことなのだろう。
八章 心の静けさをもつ
心はよく揺れる。
でも、その奥にはいつも、
波のない湖のような静けさがあるのかもしれない。
音楽を聴くこと、書くこと、深呼吸をすること。
そんな小さな時間が、心の湖面を静めてくれる。
静けさとは、
世界から離れることではなく、
世界と調和するための準備なのだろう。
静けさを保つことは、
心にひとつの湖をもって歩くことかもしれない。
結び
穏やかに生きるとは、
何も起こらないことではないのだろう。
風に揺れ、雨に濡れ、
それでも「いま」を美しいと思えること。
穏生道とは、
自然とともに、創造とともに、
人とともに、そして自分とともに生きていく道。
この穏生道は以前、自分の行動指針として作った自己憲法から抽出したものを叩き台にして、道の基礎を作りました。その上で、体験談や気づきから得られたものを整理してもらいました。当初、断定形の表現だったのですが、道はいろいろなものにつながっていくということで、かもしれないという言い方を多用してもらえるように修正しました。
なにか感じるところがあればうれしいです。
2025/11/13 6:45:58 キクシェル

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