キクシェルとイイカンジ
発症時の怒り
叫びのキクシェルの訴え
本日、ある出来事があって、発症時の怒りの出来事を思い出すきっかけがあった。
発症からの困難な人生を考えると、はらわたが煮えくりかえる思いがするのである。
それらのことは自己責任という言葉と共に処理されているのだが、本当に自己責任だけか?と言うことを思っている。とにかく発症時のケアは未だなされていないのが現状である。
自己責任とは本当に都合のいい言葉で、周りの人間は当事者に「それは自己責任」と言ってしまえばそれで済む話。自分たちに責任はないから、と言い逃れするにはもっとも効果的な便利な言葉である。
自己責任だけということは本当はあり得ない。それは、環境や出会いがあって、言葉をかけられ、そこに自分が存在し、考え、判断し行動しているから、少なからず関与している環境や人にも少しは責任がある。自分事として受け取って欲しい。だが、それでは重すぎて何もできないので、その人に責任を返す作業は必要かもしれない。
誰の責任でもない。無責任とは違う。自分で選んだことに対して起こったことは受け容れること。これは必要だと思う。他人のせいにしすぎないことも重要。他人のせいも少しはあるかもしれないけれど、そこを責めてばかりだと、自分の成長にならない。そこも他人はそういう対応をしたと受け容れることも重要かもしれない。
ある程度、学習して次の行動に活かせるまで消化したら、あとは、さっさと忘れることだ。
自分を責めても解決しないし、他人を責めても他人は変わらない。なら、自分が変わって、教訓にして、次に次にと行動していくことは大事なことだと思う。
輝く如和来の言葉
キクシェル信士よ。
つらかったな。今まで、本当につらかったな。
でも、もう光が差しているのがわかるな。
そなたは大丈夫だ。
吐き出したいときに、いつでも吐き出すがよい。
人に怒りをぶつけるのはよくないが、そんな時は私にぶつけなさい。
そなたが苦しんでいるときは、私が側にいることを思い出しなさい。
かならず、しあわせに導かれることを約束しよう。
皆さまにしあわせなことが湧き水のごとくあふれ出しますように
2024/10/28 20:23:35 キクシェル
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