分厚いファイルの中心で(SS)

空調の音が低くうなっている。
河西は、薄暗い資料室で数冊のファイルを手にした。
資料をパラパラとめくる。
上司の命令で、膨大な量の資料整理を頼まれた。
ここ先週からこの一室から出られない生活が続いている。
資料整理とは聞こえがいいが、要するに、主要戦力外通告をされたのだ。

河西は、悔しさがこみ上げてきて、資料をめくる手を止めた。
「なんでオレがこんなことに」
これでも企業戦士として、会社に貢献してきた。
営業成績もトップを何度も取っていたのだ。
それが、いきなりの資料整理係に栄転したのだ。

河西は次のファイルをめくる。
ファイルのなかに、会社の人事名簿があった。
河西はやる気もなく、順々に名前を見ていった。
すると、聞き覚えのある名前に遭遇した。
「この名前・・・・・・」

河西は1週間前のバーでの出来事を思い出していた。

河西は行きつけのバーのカウンターでジンフィズを頼んで、ナッツをかじっていた。
(人生なんて楽勝だぜ・・・・・・)
河西は営業でいい成績が出たらこのバーで、余裕をかますというのが習慣になっていた。
(来期も楽勝だな)
河西はジンフィズでナッツの欠片を喉に流し込んだ。
バーの扉を開ける音がした。
河西はナッツをかじりながら、何気なく扉の方を見た。
(・・・ええ女だな・・・)
ストレートの長い黒色のツヤのある髪で、整った目鼻立ちの美人だった。
何より、胸元を強調した服が河西の興味を誘った。
女は、カウンターの河西の隣に座った。
いい香りが河西の鼻をかすめた。
「お姉さん、ここにはよく来るの?」
アルコールも入っていたこともある。河西は不躾だとは思ったが、興味の方が勝った。
「2回目かな。あなたは仕事帰り?」
女はバーテンダーからおしぼりを受け取り手を吹いた。
「見てのとおり」
女はフッと笑う。河西はジンフィズを口にした。
「マティーニを彼女に」
河西はバーテンダーにオーダーした。
バーテンダーはグラスをふきながら頷いた。
「ここのマティーニは美味しいんだよ。せっかく来たんだから飲んでみて」
「ありがとう」
女は河西に笑顔を返した。
バーテンダーがボトルをカウンターに置いていく。
女は首を振って、髪をファサファサとさせる。
いい匂いが漂い、河西をさらに酔わす。
「私、あなたとは何度かあったことがあるみたい」
河西は心が躍った。
「オレもそんな気がしていたよ」
河西はすでに酔っていた。
河西には全く心当たりはなかったが、この女はそういう誘い方をするのかと興味が湧いた。
「どこであったかわかる?」
河西はふたりのこれからを試されていると思った。
「人生の旅路の中、かな」
河西は全力で言葉を選んだ。
女はフッと笑った。笑った顔がどことなく見たことがあったが思い出せなかった。
バーテンダーが紙のコースターを置いて、女の前にマティーニを置いた。
「こちらのお客さまからです。この方は営業成績がトップでいらっしゃいますよ」
バーテンダーはそういうと、ボトルを拭き始めた。
「へぇ、私にも営業を教えて欲しいな」
河西は女が自分に興味を持ったらしいと思った。
女はマティーニのグラスに口をつけた。
河西はそれもまた、色っぽいと思った。
「営業か・・・・・。奥深い楽しい世界だよ」
河西はわざともったいぶって見せた。
「私もあなたの奥深い世界を知りたいの」
河西は胸が高鳴った。
(誘われている・・・・・・完全に)
河西はカバンからペンを取り出した。
河西はジンフィズで濡れたコースターを見て、バーテンダーを呼んだ。
「すいません。新しいコースターもらえないかな」
バーテンダーは頷き、新しい紙のコースターを手渡した。
女はマティーニを半分ぐらいまで飲んでいるのが見えた。
河西は女に、コースターに連絡先を書いて渡した。
「営業のことで知りたいことがあったら連絡して」
女はフッと笑い、コースターの連絡先を受けとった。
「あなたの名前と連絡先を教えて欲しい。せっかくの出会いだから連絡したい」
「いいよ」
そういうと、女はコースターに名前と連絡先とハートマークを書いた。
河西はドキドキ感が久しぶりに高まった。
女はコースターを手渡すと、耳元に口を寄せた。
「マティーニのお礼がしたいの。どうしたらいい?」
河西は顔を赤らめ興奮した。
「次のお店に行く?」
女は頷きマティーニを飲み干した。
河西はジンフィズを飲み干しバーテンダーを呼んだ。

河西はその後、その女とホテルに行き、一夜を明かした。

資料室の中は、空調の音が低くうなっている。
河西は思い出したように、カバンの中にしまっていたバーのコースターを取り出した。
河西は名前を見て驚愕した。
今、手に持っている資料の名前と役職を見て全身が震えた。
「社長の娘!!」
河西は目の前が真っ白になった。
空調の音だけが、その場を支配している。
河西は分厚いファイルの中心に向かって叫んだ。
「オレは本当に愛してるんだぜ!」
資料室に虚しく反響する声が、河西をおおった。
すぐに静まりかえり、資料室は空調の音が低くうなっているのだった。

2024/11/12 19:07:38 キクシェル

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