その日、八百屋を閉めたのは午前7時半だった。
朝の販売は盛況で、野菜はサツマイモ2袋を残して全て売れていたのだ。
『しばらく休みます。1週間後、元気にお会いできるのを楽しみにしています』
手製の張り紙をシャッターに貼った。
八百屋のおやじさんは、いそいそと、旅行カバンの最終確認をはじめた。
「あなた?早くしないと飛行機に乗り遅れるわ」
聞き慣れた声が、新鮮な呼び名で、玄関の方から聞こえてきた。
思えば、今まで彼女に「あなた」とよばれたことはなかった。
赤の他人だったから仕方ないのだが、いよいよ新婚生活が始まると思うと少し新鮮な気持ちだった。
飛行機は北海道まで2人を乗せて、新千歳空港に降り立った。
やはり、本州よりは気温も低い。
長袖を着てきて正解だった。
新しいパートナーは鼻を少しぐずぐずいわせている。
北海道の空気は本州とはどこか感じが異なる。
まるで、自分たちのこれからの人生を暗示するかのように感じた。
札幌の時計台、フラノ、アイヌのコタン、霧の摩周湖、サロマ湖、知床、網走、稚内とバスは進んで行った。
旭川に着いたとき、妻が風邪が完全に悪化していた。
風邪薬も、長旅で旅行カバンに詰めてきていた分は全部使ってしまっていた。
旅行を楽しむどころじゃないということで、旭川の病院を受診した。
病院の外来の待合室でパートナーの帰りを待っていた。
彼女の言葉が忘れられなかった。
「八百屋ずっと続けるの?」
知床に向かうバスの中で、彼女は言った。
彼女は八百屋を続けてほしくないのかもしれない。
これからはパートナーと一緒に人生を生きていくのだ・・・・・・。
譲れるところは譲りたい。だが、八百屋は世の中に必要な職種だ。
そういう信念で続けてきたのだ。
パートナーに言われたからと言って、やめることもできない。
一礼をして診察室の扉を閉め、パートナーが戻ってきた。
「ただの風邪だって」
正直、安心した。すごく咳き込んで鼻も出ていたから。
安心したことを正直に伝えた。
待合室で、しばらく沈黙が続いた。
「あなた、魚屋になる気ないの?」
パートナーは唐突に言った。
「おれは野菜が好きだから」
「でもさぁ、魚っておいしいじゃない?」
「野菜も美味しいから」
「野菜って動かないでしょう」
「魚も死んだら動かないだろ」
「あなたに魚の何がわかるって言うの」
「おまえに野菜の何がわかるんだ」
しばらく待合室はしんとした空気が流れた。
「わたしたち、本当はわかりあえないのかもしれないね」
パートナーはそう言うと鼻をかんだ。
「魚のよさはおれもわかってるつもりだ。ごめんな。八百屋で」
「いいの。魚屋じゃないってわかって結婚したから」
「いいのか、おれが魚屋じゃなくて」
「いいわよ。だって、魚屋は野菜売らないじゃない。野菜売ってるあなたが好きなんだから」
「魚が食べたくなったらいいなよ。魚屋で買ってくるから」
「ありがとう。やさしいのね」
パートナーには薬が処方され、私たちは帰路についた。
彼女のファスナーに魚のストラップが揺れていた。
2025/02/17 08:01:45
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