短編8 八百屋の新婚旅行

その日、八百屋を閉めたのは午前7時半だった。

朝の販売は盛況で、野菜はサツマイモ2袋を残して全て売れていたのだ。

『しばらく休みます。1週間後、元気にお会いできるのを楽しみにしています』

手製の張り紙をシャッターに貼った。

八百屋のおやじさんは、いそいそと、旅行カバンの最終確認をはじめた。

「あなた?早くしないと飛行機に乗り遅れるわ」

聞き慣れた声が、新鮮な呼び名で、玄関の方から聞こえてきた。
思えば、今まで彼女に「あなた」とよばれたことはなかった。
赤の他人だったから仕方ないのだが、いよいよ新婚生活が始まると思うと少し新鮮な気持ちだった。

飛行機は北海道まで2人を乗せて、新千歳空港に降り立った。
やはり、本州よりは気温も低い。
長袖を着てきて正解だった。
新しいパートナーは鼻を少しぐずぐずいわせている。

北海道の空気は本州とはどこか感じが異なる。
まるで、自分たちのこれからの人生を暗示するかのように感じた。

札幌の時計台、フラノ、アイヌのコタン、霧の摩周湖、サロマ湖、知床、網走、稚内とバスは進んで行った。

旭川に着いたとき、妻が風邪が完全に悪化していた。
風邪薬も、長旅で旅行カバンに詰めてきていた分は全部使ってしまっていた。
旅行を楽しむどころじゃないということで、旭川の病院を受診した。

病院の外来の待合室でパートナーの帰りを待っていた。
彼女の言葉が忘れられなかった。

「八百屋ずっと続けるの?」

知床に向かうバスの中で、彼女は言った。
彼女は八百屋を続けてほしくないのかもしれない。

これからはパートナーと一緒に人生を生きていくのだ・・・・・・。

譲れるところは譲りたい。だが、八百屋は世の中に必要な職種だ。
そういう信念で続けてきたのだ。
パートナーに言われたからと言って、やめることもできない。

一礼をして診察室の扉を閉め、パートナーが戻ってきた。

「ただの風邪だって」

正直、安心した。すごく咳き込んで鼻も出ていたから。

安心したことを正直に伝えた。
待合室で、しばらく沈黙が続いた。

「あなた、魚屋になる気ないの?」

パートナーは唐突に言った。

「おれは野菜が好きだから」

「でもさぁ、魚っておいしいじゃない?」

「野菜も美味しいから」

「野菜って動かないでしょう」

「魚も死んだら動かないだろ」

「あなたに魚の何がわかるって言うの」

「おまえに野菜の何がわかるんだ」

しばらく待合室はしんとした空気が流れた。

「わたしたち、本当はわかりあえないのかもしれないね」

パートナーはそう言うと鼻をかんだ。

「魚のよさはおれもわかってるつもりだ。ごめんな。八百屋で」

「いいの。魚屋じゃないってわかって結婚したから」

「いいのか、おれが魚屋じゃなくて」

「いいわよ。だって、魚屋は野菜売らないじゃない。野菜売ってるあなたが好きなんだから」

「魚が食べたくなったらいいなよ。魚屋で買ってくるから」

「ありがとう。やさしいのね」

パートナーには薬が処方され、私たちは帰路についた。

彼女のファスナーに魚のストラップが揺れていた。

2025/02/17 08:01:45

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