あの黒板の向こうに
黒板に、俺は悪ふざけでこう書いた。
『ひきこもりの作り方』
文化研究会の部室。夜更け、誰もいない空間に、白いチョークの線がやけに滑らかだった。
「面白いだろ? 皮肉と風刺、ってやつ」
そう口に出して、自分で笑った。時刻は午後11時、俺は一人、酔いに任せていた。
それは、ほんの思いつきだった。
名前は加地涼(かじ・りょう)、大学2年、文学部。あまり人と交わらず、どちらかといえば皮肉屋気質で、冗談で人を煙に巻くのが癖だった。
文化研究会は自由なサークルだった。ほとんどが幽霊部員で、たまに集まって読書会を開いたり、なんとなく語り合う。そんな空気に、俺は心地よさを感じていた。
その日も何気ない一日だった。翌朝、俺が部室に行くと、黒板には新しい一文が加えられていた。
「ひとり、できました。」
胸の奥が冷たくなった。
周囲を見た。誰もいない。けれど、その短い文は明らかに“返答”だった。俺の冗談に、誰かが返したのだ。
「…誰だ?」
そのときは、まだ軽い気持ちだった。「悪ノリが続いたな」くらいの感覚だった。
でも、それは全然、軽い話じゃなかった。
それから、いつも部室に来ていた1年生の佐伯悠(さえき・はるか)の姿を見かけなくなった。
物静かで、真面目そうな男だった。最初は誰も気に留めなかった。単位を落として辞めたんじゃないかとか、家が遠くなったとか、噂が流れた。
けれどある日、共通の友人がぽつりと漏らした。
「佐伯、引きこもってるらしいよ。サークルの黒板、見てかららしい」
耳を疑った。
「黒板? あれを見て?」
俺の体から、じわじわと血が引いていった。
あれは――俺が書いた。
それからというもの、俺の中で何かが変わった。
サークルの部室に足が向かなくなった。笑いも減った。夜、自分の書いた黒板の文字が夢に出てきた。
「ひとり、できました。」
俺のせいなのか? 偶然なのか? 言葉の連なりが、人を壊したのか?
答えは出なかった。ただひとつ、佐伯が戻ってこない事実だけが残った。
大学4年の春。就職活動に失敗した。
大手は全滅。唯一もらえた中小企業の内定も、自分には合わないと感じて辞退した。誰もが社会に滑り込んでいく中、俺だけが、世界からはみ出していた。
カーテンを閉めた部屋で、ふと思い出す。
カップ麺の容器が並ぶ机。昼夜逆転の生活。誰とも連絡を取らない毎日。
――ああ、これが、あの時の「冗談」か。
黒板に書いた“レシピ”を、自分がなぞっていると気づいたとき、嗚咽が込み上げた。
自分が撒いた種は、自分にも返ってくる。皮肉なんて、もういらなかった。
数ヶ月後、地元の小さな自助会を紹介された。最初は戸惑いしかなかったが、逃げるよりはマシだと思って行った。
参加者の輪の中に、見覚えのある顔があった。
佐伯悠だった。
顔が少し痩せて、目に影を宿していた。でも、間違いなかった。
俺は、その場で名乗れなかった。罪悪感が重くのしかかっていた。
進行役の女性が、「今日は体験談をお話しくださる方がいます」と紹介したとき、佐伯が口を開いた。
「2年前、大学の部室で、とある文章を見ました。『ひきこもりの作り方』。冗談だったのかもしれない。でも、僕は、それを“命令”だと思ってしまったんです」
心臓を鷲掴みにされたようだった。
「笑って書いた言葉でも、誰かの心にナイフのように突き刺さることがある。それを僕は、ひきこもってようやく理解しました」
話が終わると、部屋は静かになった。誰も軽口を叩かない。
そのとき、俺は震えながら手を挙げた。
「…その黒板、書いたの、俺なんだ」
佐伯の目が、ゆっくりこちらを向いた。怒りでも憎しみでもない。呆れとも、哀しみとも言えない複雑な光だった。
「……そうですか」
「本当に……すまなかった。冗談のつもりだった。だけど、それで人を壊すなんて思ってもいなかった」
佐伯は、少し黙ってから、言った。
「僕も、壊れるとは思ってなかった。けど……そうなった。でももう、終わったことです。これからを見てくれれば、それでいいです」
その言葉に、俺は涙が止まらなかった。
それから数年後、俺は今、自助会のスタッフとして働いている。
かつての自分のように、誰かを無意識に追い詰める人がいる。かつての佐伯のように、心に傷を負う人もいる。
でも、言葉の責任を知った俺は、もう冗談では済ませない。
あの日の黒板。今でも夢に見る。
それは忘れてはならない、“誰かを壊してしまった”記憶だ。
【教訓】
遊び半分の言葉が、人の人生を狂わせることがある。
「冗談だった」で済むのは、言った側だけだ。
そして、自分が同じ境遇になったときに初めて、その重さがわかる。
言葉には力がある。その力を軽く見てはいけない。
作 キクシェル×ChatGPT
助けられるものなら・・・・・・
2025/08/04 1:51:48 キクシェル
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