今日は少し足を伸ばして、精神障がい者と陽明学についてChatGPTと対話しました。
まず、陽明学について。陽明学は中国が明の時代の思想家である王陽明(1472-1529)という人が始めた学問で、わが国の陽明学者、中江藤樹(1608ー1648)などに大きな影響を与えています。
ChatGPTによると、中江藤樹は、日本に陽明学を本格的に紹介・発展させた人物だそうです。彼の思想は「知行合一」「良知」に深く基づく独自の道徳的実践と家庭的・社会的倫理を強調した点に特徴があるそうです。
「良知」とは何かといえば、人間に本来備わっている善の心のことで、誰しもが本来「善悪を判断する心」をもっているそうです。
「良知」とは書物から得る知識ではなく、人間に生まれつき備わっている道徳的直感のことだそうです。「知行合一」とは何かといえば、知ることと行うことは一体であるということで、ただ知識として「善い」と知っていても、それを実行しなければ意味がないとする考え方です。知と行は分けられるものではなく、善を知ったときには、すでに実行が始まっていなければならないとしています。
そして、中江藤樹は「孝行はあらゆる行ないの根本である」と道徳の基本として孝を最重要視して、孝の実践を通じて他の徳も身につけると説いたそうです。
そして、弟子には「自分の家庭を正しく保てない者が、他人の家庭について批判するべきではない」という意味の言葉を遺しています。自分の生活こそが道徳実践の出発点であるというのが中江藤樹の信念だったそうです。
ChatGPTの内容要約
そこで疑問に思ったのが、「良知」の部分で、陽明学的に、良知をもって悪行をする人はどういう扱いになるのかというものでした。
次のような回答が得られました。
【結論】
陽明学(特に王陽明や中江藤樹の立場)では、
「良知をもって悪を行うことは、本質的には“良知が曇っている”状態である」と解釈されます。
つまり「本当に良知が発動していれば、悪行には至らない」――そのように考えます。■ 陽明学における「良知」とは?
陽明学において「良知」とは単なる知識ではなく、
→ **感情を伴った道徳的直感(善悪を判断し、善を促す内なる力)**です。
したがって、「良知を知っていたが、あえて無視して悪行を行った」というのは、実際には知っていたのではなく、“知ったつもり”だった、または利欲や私心がその良知を覆ってしまった状態と見なされます。■ 王陽明の言葉:
「人、良知に従えば、天理を行ふ。良知を蔽ふは私欲なり。」
(『伝習録』より)
→ 「人が良知に従えば、自然と道にかなった行いをする。良知を曇らせるのは、私欲である。」
つまり、「良知をもって悪を行う」というのは、実際には**良知が“蔽われている(=覆われている)”**のであり、それは本来の良知の働きとは言えないのです。
なるほどと思ったのですが、統合失調症患者の場合、幻聴や妄想などがあるわけです。その場合、「良知を致す」とはどういう扱いになるのか、というのが疑問でしたので続けて質問しました。
【結論の要約】
陽明学の立場から言えば、
幻聴や妄想の中でも“本来的な良知”は存在し続けているが、
その発動・判断力が一時的に“覆われ”、“混乱している”状態にある
と解釈できます。このときの「致良知(良知を発揮する)」とは、
単に「声に従うこと」ではなく、心の深層にある“真の自己”の声を、時間と助けをかけて慎重に聴き直す行為になります。
解説の中でいわれていたのは、陽明学の前提である「良知」は人は誰しも生まれながらに良知をもつと明言されており、能力の有無や、地位、知識、病気の有無に関係なく存在するということです。
ですから、統合失調症であっても、「良知」は失われていないということです。
そして、陽明学では、良知が働かなくなる原因を「私欲や妄念」と説明しているそうです。私欲は利己心、怒り、恐れ、執着、誤った信念などを指すようです。
そうなると、統合失調症の幻聴・妄想は「良知を覆うもの」として理解できるといいます。
そして、良知はどうすれば発揮されるか。
統合失調症を患った人の、陽明学で「良知を致す(=発揮する)」ためには。
- 静かに内省する(→妄想や幻聴で困難になる)
- 信頼できる他者との対話(→現代でいえばピア・サポートや支援者)
- 慎重に「これは本当に自分の本心か?」と問い直すプロセス
陽明学×精神医療=現代的応答モデル
陽明学の原理 統合失調症の対応 良知はすべての人に宿る 病気があっても良知は失われない 良知は妨げられも、消えない 幻聴・妄想が良知を覆っても、核は生きている 致良知は“内面の声”を誠実に聴くこと 幻聴に巻き込まれず、自分の本心を見極めようとする努力 具体例:幻聴と致良知のプロセス
✦ 状況
ある患者が、幻聴で「あなたは罰を受けねばならない。腕を切れ」と命じられる。
✦ 陽明学的な「致良知」の視点
- 幻聴に対して、すぐには従わない
- 「それは本当に自分が正しいと思うことか?」と問い直す
- 医師や支援者に相談することを選ぶ
これはすでに「良知を致す行為」になります。
外から見ると些細でも、内面では大きな倫理的実践です。
体験的に思うのは、例えば幻聴があったとして、それに対して一段階目に、そのことを受けて、次に快か不快かを感じます。そこで行動を起こすまでに一瞬時間が設けられます(余裕がなければ流されますが)。鍵になるのは、そこ(行動を起こすまで)の部分だろうなと思います。
そこができないと入院だろうなと思います。逆に言えば、その瞬間を制することができれば、統合失調症の幻聴とうまく付き合える一つの方法なのではないかと思います。
声に従って行動を移す前に、本当に自分が正しいと思うことか、自分や家族や周りの人に不利益がないか。そこまで問い直せれば、異常行動はなくなると思います。
実際に私はその瞬間をある程度、扱うことができるようになり、異常行動はかなり減った(間違いもあるのでないとは言いませんが)と思います。
ChatGPTから精神障がいのある人へのメッセージを載せます。
【原文】伝習録より
「知は行の始めにして、行は知の成なり。知行はもと一事なり。」【やさしい翻訳】
「本当にわかっていることは、自然と行動になるし、やってみて初めて本当にわかるんだ。わかることと、やることは、もともと一つなんだよ。」【実践的な解釈:精神障害のある人へ】
たとえば「元気になりたい」「安心したい」と思う気持ち。
それは、あなたの中の“良知”の声かもしれません。
でも「そう思ってるのに何もできない…」と感じるかもしれません。
王陽明は、「まずはほんの一歩でもいいからやってみよう」と言っています。
たとえば「誰かに話す」「薬を飲む」「お茶を飲んで休む」
そういう小さな行動は、あなたの“わかってる”心の表れです。
逆に行動してみることで、自分の本当の気持ちに気づけることもあります。
焦らず、「できることを、できる範囲で、今」
それが“知行合一”です。
【原文】藤樹の孝
「孝は、心のまことなり。父母に仕ふるは、天地に仕ふるに同じ。」【やさしい翻訳】
「親を思う心は、自分の中の“まごころ”そのものなんだ。
それは、宇宙の大きな流れの一部でもあるんだよ。」【実践的な解釈:精神障害のある人へ】
藤樹先生は、自分を育ててくれた人を思う気持ちをとても大切にしていました。
でもそれは、「親を完全に大切にしなければならない」という義務じゃありません。
たとえば「親に心配をかけて申し訳ない」「ありがとう」
そんな小さな気持ちがあれば、それが“まごころ=良知”です。
それは病気のなかでも失われていない。
その気持ちを忘れないことが、あなたを支えてくれます。
あらためてまとめてみて、陽明学とWRAP(Wellness Recovery Action Plan)は相性がいいのではないかと思います。
というのも、Action Planということで、行動が大事だといっているからです。WRAPでは「良知」に値するのはキーコンセプトの「Hope」ということなのではないかなと、思ったりもしました。必ず自分たちに備わっているそこにある小さな光「良知」「Hope」。これらが覆い隠され曇ったとき、立ち返るべきものがあると安心だなと思います。
全ての人にあまねく存在するものだとするなら、希望が持てるものだなと思います。
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