短編15 分厚いファイルの中心で

空調の音が低くうなっている。
河西は、薄暗い資料室で数冊のファイルを手にした。
資料をパラパラとめくる。
上司の命令で、膨大な量の資料整理を頼まれた。
ここ先週からこの一室から出られない生活が続いている。
資料整理とは聞こえがいいが、要するに、主要戦力外通告をされたのだ。

河西は、悔しさがこみ上げてきて、資料をめくる手を止めた。
「なんでオレがこんなことに」
これでも企業戦士として、会社に貢献してきた。
営業成績もトップを何度も取っていたのだ。
それが、いきなりの資料整理係に栄転したのだ。

河西は次のファイルをめくる。
ファイルのなかに、会社の人事名簿があった。
河西はやる気もなく、順々に名前を見ていった。
すると、聞き覚えのある名前に遭遇した。
「この名前・・・・・・」

河西は1週間前のバーでの出来事を思い出していた。

河西は行きつけのバーのカウンターでジンフィズを頼んで、ナッツをかじっていた。
(人生なんて楽勝だぜ・・・・・・)
河西は営業でいい成績が出たらこのバーで、余裕をかますというのが習慣になっていた。
(来期も楽勝だな)
河西はジンフィズでナッツの欠片を喉に流し込んだ。
バーの扉を開ける音がした。
河西はナッツをかじりながら、何気なく扉の方を見た。
(・・・ええ女だな・・・)
ストレートの長い黒色のツヤのある髪で、整った目鼻立ちの美人だった。
何より、胸元を強調した服が河西の興味を誘った。
女は、カウンターの河西の隣に座った。
いい香りが河西の鼻をかすめた。
「お姉さん、ここにはよく来るの?」
アルコールも入っていたこともある。河西は不躾だとは思ったが、興味の方が勝った。
「2回目かな。あなたは仕事帰り?」
女はバーテンダーからおしぼりを受け取り手を吹いた。
「見てのとおり」
女はフッと笑う。河西はジンフィズを口にした。
「マティーニを彼女に」
河西はバーテンダーにオーダーした。
バーテンダーはグラスをふきながら頷いた。
「ここのマティーニは美味しいんだよ。せっかく来たんだから飲んでみて」
「ありがとう」
女は河西に笑顔を返した。
バーテンダーがボトルをカウンターに置いていく。
女は首を振って、髪をファサファサとさせる。
いい匂いが漂い、河西をさらに酔わす。
「私、あなたとは何度かあったことがあるみたい」
河西は心が躍った。
「オレもそんな気がしていたよ」
河西はすでに酔っていた。
河西には全く心当たりはなかったが、この女はそういう誘い方をするのかと興味が湧いた。
「どこであったかわかる?」
河西はふたりのこれからを試されていると思った。
「人生の旅路の中、かな」
河西は全力で言葉を選んだ。
女はフッと笑った。笑った顔がどことなく見たことがあったが思い出せなかった。
バーテンダーが紙のコースターを置いて、女の前にマティーニを置いた。
「こちらのお客さまからです。この方は営業成績がトップでいらっしゃいますよ」
バーテンダーはそういうと、ボトルを拭き始めた。
「へぇ、私にも営業を教えて欲しいな」
河西は女が自分に興味を持ったらしいと思った。
女はマティーニのグラスに口をつけた。
河西はそれもまた、色っぽいと思った。
「営業か・・・・・。奥深い楽しい世界だよ」
河西はわざともったいぶって見せた。
「私もあなたの奥深い世界を知りたいの」
河西は胸が高鳴った。
(誘われている・・・・・・完全に)
河西はカバンからペンを取り出した。
河西はジンフィズで濡れたコースターを見て、バーテンダーを呼んだ。
「すいません。新しいコースターもらえないかな」
バーテンダーは頷き、新しい紙のコースターを手渡した。
女はマティーニを半分ぐらいまで飲んでいるのが見えた。
河西は女に、コースターに連絡先を書いて渡した。
「営業のことで知りたいことがあったら連絡して」
女はフッと笑い、コースターの連絡先を受けとった。
「あなたの名前と連絡先を教えて欲しい。せっかくの出会いだから連絡したい」
「いいよ」
そういうと、女はコースターに名前と連絡先とハートマークを書いた。
河西はドキドキ感が久しぶりに高まった。
女はコースターを手渡すと、耳元に口を寄せた。
「マティーニのお礼がしたいの。どうしたらいい?」
河西は顔を赤らめ興奮した。
「次のお店に行く?」
女は頷きマティーニを飲み干した。
河西はジンフィズを飲み干しバーテンダーを呼んだ。

河西はその後、その女とホテルに行き、一夜を明かした。

資料室の中は、空調の音が低くうなっている。
河西は思い出したように、カバンの中にしまっていたバーのコースターを取り出した。
河西は名前を見て驚愕した。
今、手に持っている資料の名前と役職を見て全身が震えた。
「社長の娘!!」
河西は目の前が真っ白になった。
空調の音だけが、その場を支配している。
河西は分厚いファイルの中心に向かって叫んだ。
「オレは本当に愛してるんだぜ!」
資料室に虚しく反響する声が、河西をおおった。
すぐに静まりかえり、資料室は空調の音が低くうなっているのだった。

2024/11/12 19:07:38 キクシェル

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