「しぶとく生きる」の定義について。
「しぶとく」というのは簡単に諦めないことでいいと思うのですが、
「生きる」というのがなかなか考えさせられるものであります。
そこで、前回、仮に生きるを
世界の一部として、また、独立した個体として、世界に存在し、命をつかって働きかけること。
と仮定しました。
ですが、どうも違うような気がします。
仏教のサイトを見たら、生きる意味はないのではないかと答えている人が多いということでした。
私の言い分は、生きる意味があるかないかではなく、生きればいいじゃんということなのですが。
確かに、精神障害者になる前も、なってからも、まぁ、喜怒哀楽ありましたが、絶望もあったりで、生きる意味を考えるようなことはありました。生きていても仕方ないじゃないか。と。
ですが、私としては、せっかく生を頂いているということで、その生を最後まで生きるのが誠実な対応かなと思っています。
理由づけをすれば、母が愛情を持って苦労して産んでくれて、両親が育ててくれて、色々な人に接して、色々なものを見聞きし、学び、体験し、楽しいこと、うれしいこと、つらいこと、苦しいこと、後悔することなど、様々ありました。
そうした経験ができたのも、生きていたからであり、この先も生きていくから経験ができるのでしょう。暗い人生しか待っていないといいきるのは早いような気がします。暗いなら自分が灯りを灯せばよいだろうということで、安心できる小さな灯りをともせるようになることが、それが生きるということだったかもしれません。
私の解答としては、生きることは
安心できる小さな灯りをともせるようになること
と再定義したいと思います。
ですので、「しぶとく生きる」とは
安心できる小さな灯りを灯すことを簡単に諦めないこと
と再定義されました。
2026/06/06 19:13:26 キクシェル

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