注:三日漸健は在家の仏教の教えを学ぶ僧侶ではないただの人です。
四聖諦(ししょうたい)と読みます。
四聖諦は仏教の話にでてきて、苦諦、集諦、滅諦、道諦の四つのことを言うそうです。
「苦」とはなにかということですが、AIによれば、サンスクリット語のドゥッカというものを語源としており、単に苦しみというだけではなく、
「思いどおりにならない」
「安定せず、満足しきれない」
「条件付けられたものには不安定さがある」
といったような意味があるそうです。
四聖諦は、
1.苦そのものはなんであるかわかる
2.苦の原因はなんであるかわかる
3.苦を滅する方法がわかる
4.苦を滅する道を実践する
という4つのことです。
私は生きづらいなと思って生きていました。
生きづらさはどの時代にもあるものではないかと思います。
生きづらい社会は過去あったし、現在もそうであるし、これからも生きづらさはあるでしょう。
生きづらさとはいったい何なのでしょうか。
生きづらさの定義からいきましょう。
私の仮定義としては、
『生きるのがつらい、しんどいと思える事象が常につきまとっている状態』
としましょう。
生きるのがつらいと思うのは、感覚の問題で、しんどいというのは身体とか精神の疲労や経済や人間関係などと関係するのかと思います。
苦しくてなかなか思いどおりにならないことですね。これは、生きづらさというのは苦であると言うことができます。
苦であるとわかったということは、仏教の教え的には解決できる話になるのではないでしょうか。
四聖諦がありますからね。
つらいとは、突き詰めれば、自分の思いどおりにならないということにつきるのではないでしょうか。
生きていて欲しい大切な人が亡くなった。
会社が残業手当を払ってくれない。
上司が相談にのってくれない。
旦那が浮気を隠していた。
学校でいじめられた。
自分の考えが認められない。
思いついた事柄についてはこれらのものでしたが、他にもたくさんあると思います。
思いどおりにならない原因を考えてみましょう。
原因1.死というものがあるから。
たとえ大切な人とはいえ、人間である限り、死ということからは逃れることができない。
死がある限り、別れの悲しみから逃れることはできない。
だから、大切な人が亡くなったことを思いっきり悲しめばいいと思う。
そして、受け入れていくしかないだろうと思っています。
原因2.社会を生きるすべての人が聖人君子というわけではないから。
社会を生きる人すべてに聖人君子になれということは、現実的に見て不可能である。
皆が聖人君子でないのであるなら、社会制度の不備や社会制度の運用に問題が出るのはある意味で仕方がないことであると考えます。
原因3.人間にはそれぞれに事情があり、すべての事情に完全に対処できるわけではないから。
人間の持って生まれた性質や能力、家庭事情や育った環境など、それぞれが事情をかかえている。その上で、経験してきたことは異なる。その相談は乗るべきか否かについても、その人の持つ事情や考えによって、その対応は異なります。すべての人が、他人を利するために動くわけではないことは、聖人君子ではないと先ほど述べているとおりです。
原因4.私欲を肯定するなら、仕方のないことであるから。
私欲を肯定しないなら、全員が大欲なわけで、聖人君子となります。ですが、現実はそんなことはないと先に述べたとおりです。私欲をゆるせるかどうかは大切なところです。旦那が浮気をするのも私欲。旦那には自分だけを見ていて欲しいというのも私欲。話し合いの機会やお互いを尊重しあうことができなかった夫婦関係が原因かと思います。愛欲は夫婦間のみ存在すべきものなのかも知れないと思いました。
原因5.全員が聖人君子ではないから。
学校等のは学びの場であるが、学校の成績を上げることを第一に考えられたところが多い。そのため、人格の成長を教えられることはほぼなく、人格については各々が学ぶという事情になっています。そのため、人格の形成期で歪む人も出てきて、いじめなどということが起きてくると考えています。
経典を読むということもなく、道徳の事業でなんとなく教えられるということ原因としてあります。
原因6.真理ではない考え方であるから。自分の考えを認められない場で話したから。
それぞれちがった立場や事情や考えを持っているので、自分の考えが絶対的にその場で通用するとは限らない。これが現実であると思います。
そもそも、思いどおりにならないことを思いどおりにする必要があるのかというところを見てみましょう。
大切な人の死ですが、死は、人間として生きる以上避けては通れないものであり、かならず、大切な人がいればおとずれるものである。思いどおりにならないものだとして、受け入れていくしか道はないのかも知れない。そう簡単に割り切れないということもあるかもしれませんが、やはり、少しずつ、少しずつ死を受け入れていくしか方法はないように思います。
社会の決めごとをできない人がいるのは仕方のないことです。社会の決めごとが不完全であるがためです。そして、人間が不完全であるなら、このことはどうしようもないことなのです。社会を変革しようと立ち上がることもいいでしょう。根本を変えるなら、慈悲や尊重を実行できる人を増やすことかなと思います。慈悲や尊重があれば残業代を払わないなんてことはないだろうし、社会の他の部分も大いに素晴らしいものになるのではないかと思うのです。必ずしも聖人君子ではなくても、慈悲と尊重の実践ができる人が増えることは社会にとってプラス要因だと思われます。
慈悲や尊重の実践が多くの人にあれば、人の話を快く聞いてくれる環境は増えるのではないかと思います。自分も尊重、他人も尊重、自分にも慈悲、他人にも慈悲。そんな実践をする人が増えたら、生きやすくなるのではないかと思います。
そして、無理に聖人君子になる必要はないと思います。各々、私欲があることを認めて、お互いに歩み寄ったり、話し合って理解し合ったり、些細なことはゆるしあったりできると、それこそ、慈悲や尊重の実践になるのかも知れません。愛欲は夫婦間だけにしたいですね。それも、大切な人を慈しみ、尊重することにつながります。
人格の成長をするためには、それこそ、先ほどの実践、慈悲と尊重の実践がよい人格を形成すると思います。そういうことを学べる人たちなら、いじめなんてものは存在しなくなるのではないかと思います。もし、そういう場がないなら、慈悲と尊重の実践をする学びの場を学生がつくったらいいのではないかと思います。
慈悲と尊重の実践をするなら、それは、まさに素晴らしい人となります。そういう人の考え方なら必ず認められると思います。少なくとも、私は認めます。
今回は、いくつかの生きづらさの問題を私が四聖諦というものを使って見ていったわけですが、総じて言えることは、慈悲と尊重の実践がキーワードとして出てきました。もう一度、定義を見てみましょう。
慈悲:菩薩の衆生(しゅうじょう)をあわれむ心。楽を与える慈と苦を除く悲とをいう。
いつくしみ,あわれむ心。また,情け深いこと。
尊重:価値あるもの、尊いものとして大切に扱うこと。
今回、四聖諦で生きづらさの中のつらい項目をいくつか、見てきましたが、思いどおりにならないことは受け入れ、取り組みとしては、慈悲と尊重の実践が有効なものが多いのではないかという印象でした。また、慈悲と尊重の実践をする人が増えれば、社会は幾分も住みやすくなるのではないかという大きな希望がありました。
今回は四聖諦で生きづらさについてみてみました。
皆さんも、自分の生きづらさを四聖諦で解決してみてはいかがでしょうか?
皆様の何かのお役に立ったなら幸いです。
2026/10/24 1:17:17 三日漸健

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