ある夏の深夜、縁切り寺にひとりの女性がかけてきた。
おうめは観音像の前に立つと、呼吸を整えて、手を合わせた。
「うちの娘があの長珠藩士と縁が切れますように」
あの長珠藩士とは真藤影篤(しんどうかげあつ)のことであった。
影篤は女遊びが好きで、藩内では有名だった。
おうめの娘、さくらは影篤と昨年知り合い、密会を重ねているという。
おうめは、さくらのことが心配でたまらなかった。
「なにごとですかな。こんな夜更けに観音参りとは」
本堂から坊主が出て来た。
「流果(るか)上人。こんばんは。起こしてしまい申し訳ございません」
「本堂に、どうぞお上がりなさい」
おうめは、草履をそろえて、本堂に上がった。
本堂は荘厳な仏具が並んでおり、奥には、日皇如来が安置されていた。
おうめは、線香を灯し、ご本尊に手を合わせた。
「今、娘が真藤影篤という侍と密会を重ねているんです。女遊びがひどいと聞きしっています。心配でならないのです」
流果上人はうんうんとうなずいて、お茶を入れていた。
「真藤影篤と娘の縁が切りたいとおもって、この寺の縁切り観音様にお願いに来たのでございます」
流果上人は、お茶をおうめに渡した。おうめの手には湯飲みのぬくもりが伝わった。
「娘さんを大事に思う心はよくわかりました。人と人とのご縁はどうすることもできないことではあるけれど、ここは縁切り寺ですから。観音様が願いを聞き入れてくれるでしょう。しかし、その縁が娘さんにとって魂の学びになるということもある。2人のめぐりあわせは今世だけではわからないことですから」
「お上人、私はどうしたらいいのでしょう」
おうめは、困惑と悲しさの混じった表情を見せた。
「親が心配する親心はよくわかります。しかし、娘さんには娘さんの人生がある。自分の大切な人を苦しめるような人とは縁を切らせてあげたい。その気持ちもわかります。ですが、本人が本気で縁を切りたいと思って行動する以外、縁を切ることはできないものなのです。娘さんが本当にそのお侍が嫌いになってから縁を切りたいと思った時、あなたは協力してあげるということで良いのではないですか」
「そうですね。わかりました。あの侍さえいなければいいんですよね」
「いや、そういうことではなくて。聞いてましたか?」
流果上人は夜明けまで、強行におよびそうな、おうめを説得した。
翌朝の読経で眠ってしまったことは流果上人にとっては忘れられない出来事となった。
2026/05/13 9:00:20 キクシェル

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